琥珀
こ
はく
「余は何も望まぬ。そちにはこれ以上の何も望んではおらぬ」
幼い頃から己が口にする言葉は、何よりも重いと教えられてきた筈であった。
言葉は目の前の相手を自在に絡め取る力を持っている。
家臣の誰かを褒めるのも、誰かを諫めるのも、己がそう口にすれば例え事実と違っていたとしても、事実が曲がって己についてくるもの。そう教えられ、そしてこの会津へやってきて、それが現実であることを知った。
所詮、他所からやってきた藩主である。
家臣は己が知るどの藩よりも従順で賢かった。頼もしいと感じたのは、若さ故だったか。
だが賢者たちであるが故に、この若い藩主を心から受け入れることはできぬであろうということも察するには易かった。
それが会津の矜持であろうと思うのは至極当然。
寧ろそうであっても慇懃に藩主を祀り上げる心意気に驚嘆もする。
当然のことと笑う者もいるだろう。
妙な心地となったのはいつが最初であったか。
己の言葉が重さと、妙な軽さを持って空を彷徨うようになったのは。
京都守護職の要請が舞い込んだとき、家臣が激しくそれに異を唱えたのを忘れない。どのようなことにも、あれほど激昂する姿を見たことはなかった。
僅かに心が高揚した。本気で会津のことを憂いているからこそと、思わず制する声が上擦った。もっと異論を唱えよと、心の中で叫んでいた。
しかし藩主の口から毀れた言葉は何よりも重い。
己の発した言葉に家臣は簡単にその頭を垂れてしまった。
「何故じゃ」
独りになってから、そんなことを口の中だけで呟いたとて何も変わらぬ。
民の為を思うならば、何故この出来損ないの藩主を捻じ伏せぬ。家訓を持ち出してまで、茨の道を選んだ余を恨まぬ。
藩祖・保科公の遺した家訓もまた、藩主の口から毀れた言葉の一つ。
そうして見えぬ何かに雁字搦めになることを誰が望んだのか。
会津にやってきたころは、この豊かな雄藩をどう治めるべきかとそんなことにばかり思いを巡らせていた。冷たい雪に閉ざされる冬とて、その美しさはこの地の気高さゆえ、類稀なるものと思い浸った。
春になれば、飛び立っていく鳥たちの如く己も羽を伸ばしたつもりであった。
夏になれば田の稲と同じ様に己も背筋を伸ばし、藩主としての勤めに励んだつもりであった。
だがそのどれもが自身の夢想でしかないと気づくのに、それほどの時はかからなかった。
身の丈に合わぬことに手を染めた罪悪感は、いつからか己の肢体を己では動かせぬほどに縛り付けた。
それは蚕が繭を作り出すように。
それは蜘蛛が巣を張るように。
それは琥珀が木々から流れ出すように。
どれも溜息が出るほど美しい。だが指一本動かすことさえならぬ。
ゆっくりと、だが確実に動きは封じ込められる。
「余は、そちに何も望んではおらぬ」
動けぬ我が身は、動ける筈の者を己の琥珀に共に閉じ込めることを望まなかった。
それがこれまで命を賭して仕えてきた者に対しての言葉としては、些か冷たい響きを宿していたとしても。
仮に今目の前にいる男が、会津藩士ならば課さねばならぬ役目もあろう。
領地領民の為に責めを負えと言うこともできるだろう。
だが、男はそれら一切の無駄なものを持たぬ。
己が京洛で初めてであったときから今日まで、余計なものを持たず、その手にしたかったであろうものもすべて捨ててここまでやってきた。
腰に差した二刀だけが男のすべて。
そんな者に、今再び何を持たせることができるだろうか。
今更、重い荷を持たせることなどできようもない。
出会ってからどれほどの月日が経ったのか。
剣士にしては薄い胸板も、頭を垂れる度に揺れる豊かな髷も、精悍な顔に似つかわしくない女子のように細い指も少しも変わらぬ。
なのに、その目が宿した暗い光だけは日に日に強さを増して、いつしか周囲のものを寄せ付けぬほどの力になっていた。
男は静かに顔を上げると、じっとこちらを見つめる。物憂げであり、穏やかであり、しかし逸らすことを許さぬ瞳。
「それは何ゆえでございましょう」
その瞳を真っ直ぐに向けられては、本心を明かさぬわけにはいかぬ。
一度口に乗せた言葉は二度と消せぬと知っていても。
そこに一抹の迷いもないとは言えなくとも。
「理由など要らぬ。そちは、ここに居てはならぬ。それだけじゃ」
幼き子どもが駄々を捏ねるが如き言葉だった。思慮の欠片も感じられない言葉。
「それだけなのじゃ」
北へ行くと言っていたではないか。
そう、この男の上司は僅かな逡巡を見せただけで、すぐさま北へ行くと言い切った。北へ行けば、まだ望みはあると。そこに広げられた言葉には強さと、美しさがあった。
だがそれは空に掛かる虹の如し。
一時それは誰の目にも見えるのに、立ち去ってしまえば雲を掴むより形がない。北で、何ができるという。この会津でできぬことが、北に行くだけでできるものか。
それでも、この会津に居るよりは望みはあると言う。
新選組を長く率いてきた男は、小さな虚無感を自身の言葉で打ち消し、そして言葉にすることで現実に引き寄せようとしているようだった。
「そなたはここにいてはならぬのじゃ。北へ行くが良い」
「土方さんと共に行けと」
「それが妥当であろう」
秋の風が吹き始めて長いというのに、額には汗が滲んだ。
それは目の前の男の鋭い眼光故。
男の目には、身動きのできぬ羽虫の如きこの身体が映っている。琥珀に閉じ込められた羽虫の如き哀れな姿。
「ここに残れば、いつしか動けぬ身となろうぞ」
光のない己の景色の中で、男がじっくりと琥珀に沈んで行く姿が見える。
この剣士の姿を、このままに閉じ込めたらどれほどに美しかろう。
北へ向かうと言い切った土方との間に何があったのかは知らぬ。知ろうとも思わぬ。
ただ一方は既に北へ向かい、一方が会津に未だいるという現実だけがここにある。
数日前、残留した新選組は如来堂で壊滅したと言う報があった。
その場を率いていた男が何故、ここにまた生きて現れたのか、知る由はない。新選組の入城を許したわけではない。そのような名の隊はもうここにはいない。
だというのに、山口二郎という男だけがここに独り現れ、そして膝を折り、頭を垂れている。
「ならぬばかりでは、合点が行きませぬ」
瞳の強さに似合わぬ、穏やかな声を発する。
言葉の強さに似合わぬ、儚い声を発する。
どれだけの戦いを掻い潜れば、このような穏やかな声になれるのか。
どれだけの人を殺めたら、このような儚い声になれるのか。
返答に間が空いたのは、その声に聞き惚れたからなのかもしれない。
「うむ」
会津の夏は短い。その短い夏が、異様に長く感じられた。秋を迎えてもまだ、重苦しい夏が続いているような。
蝉時雨が耳の奥に届いた。
幻聴だ。
いつ城下に敵が攻めてくるかと、どこでどう食い止めればよいのかと、一体誰が会津に味方するのかと、そんな事ばかりを考え続けた夏。
考えれば考えるほど、身体は動かなくなり、蝉時雨だけがうるさく耳に届いた夏。
蝉時雨など聞きたくない。
山口だけの声で良い。
その穏やかな声だけで良い。
他の音は何も聞きたくない。
「ならぬものはならぬ」
漸く搾り出した返答のつまらなさに、驚愕する。あまりの無才ぶりに笑いが込み上げる。
幼い頃から学んだすべての言葉は無駄だった。
己の胸中にあるものをそのままに言葉にすることの難しさを、今になって知った。
「ならぬもの。ですか」
蝉時雨は止まない。
もしかしたら、本当に蝉は生き残っているのかもしれないと思う程に。
琥珀に絡め取られなかった蝉は、存外己よりも運が良い。
「そうじゃ。ならぬものは、ならぬのじゃ」
「ならぬものがならぬのは、それが会津の教え故でしょうか」
山口は生真面目に言葉を紡ぐ。
「知っておったか」
動けぬ己の発する言葉は、すべてがそこから始まっている。
会津の教えのすべてを会得していれば、誰が藩主であっても同じ答えしか出てこないに違いない。
教えを守り、家訓を守れば自ずと同じ道を歩むことになる。
この松平容保である必要があったかどうか、わからない。
「もうじきこの城も落ちる。なれば会津もどうなるかわからぬ。最後の理由が、会津の教えでも良かろう」
藩主にあるまじき言葉を吐いたと自覚していた。
しかしその瞬間、絡め取られたはずの指先が動いた気がした。
ほんの僅か。
「なればこそ、ならぬものがならぬこともないでしょう」
相変わらずの生真面目な返答だった。
「何を言うておるのやら」
己の頬が緩むのを感じた。
その瞬間、山口も笑った。
「降伏という類稀なる御経験をなされるのは、容保様以外にありますまい」
これもまた、あるまじき言葉。
ただの御家人上がりが言うにはあまりにも大逸れてはいる。だが、薩長が徳川から征夷大将軍の名を奪った今ならば、何ぞ可笑しいこともあるまい。
「歴代の殿様には到底できぬことかと」
「そなた、世が世ならこの場で打ち首ぞ」
思わず胸の辺りから、くすりという笑いが込み上げ、そのまま声になった。
固まりかけていた琥珀が、とろりと流れ出した。
「世が世なら申しませぬ。世が世なら殿への拝謁すら叶わぬ身。世が世なら恐らく今ごろは傘張りに精など出しておりましょう」
相変わらず生真面目に答える山口の声を耳の奥に収めた。
「共に行くと申すか」
「先刻からそのように申し上げておりまする」
「物好きよのう」
「物好き故、殿のこれからにも些か興味がございまする」
「なれば。好きにせよとしか言いようがあるまいな」
もう一度笑みを見せるかと期待したが、山口はあっさり礼を述べるに留まった。
この動かぬ身体にも、まだ少しは見物に値するものがあると言う。
なれば許すまじと頑なになるのもつまらぬもの。
琥珀が固まるのには、随分と時が掛るという。なればせめて無様な姿を晒さぬよう、僅かにでも手足を動かしてみるのもまた一興か。
命ある領民のために、この頭を深く下げるのも己にしかできぬ役目。
無論、そのような教えは己の知る限り会津にはない。
「そなたは変わっておるのう」
この命を投げ出す様を山口が見届けるというのならば、少しは張り合いにもなる。
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」
悪ふざけなのか、本気なのか。
「近う」
手招きすると山口は音も立てずにするりと進み出た。
差し込む西日が山口の髪を照らした。
「そなたがそれほど弁の立つ男とは思わなんだ」
「剣術の腕だけだと言われております」
誰がそんなことを言ったのか。
否、そう思っていたのは他でもない、己なのかもしれぬ。
北へ向かう新選組にとっては、喉から手が出るほど惜しい男に違いない。
だが土方がこの男を会津に置いて行った理由がわかったような気がした。
「余の言葉を、力ずくで退けたのはそなたが初めてやもしれぬな」
この男ならば、例え会津に身を置いても自在にその身体を動かすのかもしれない。
山口を照らす西日は琥珀の如き色を宿し、しかし背を包み込む前にさらりと溶けて消えていった。
まるで山口だけを避けて通るように。
松平容保 明治元年