緋色

いろ

緋色
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「こりゃすごか」
埃っぽい東京の空が、雷鳴と共に降り出した雨に洗われていた。
藩がなくなった夏。
茹だるようなねっとりとした空気に包まれながら、往来を歩いているときの突然の雨であった。
当然足止めを食らうことにはなるが、急ぐ用向きもない。寧ろ、この雨が上がる頃には涼やかな風と共に月が昇るのだと思えば心は軽い。
背負っていた荷を暫し降ろすような気分で、近くの店へ飛び込む。
何の店だろうか。
未だにこの東京という土地に慣れることはできない。
江戸にも馴染めずにいたのだから、慣れないのは名が変わった所為ではない。この東京を作っているヒトやモノにまるで馴染めない。
この町の者たちは、聞きなれないであろう薩摩や長州の言葉を発する男たちを笑って見ている。
ではそれが居心地の悪いものかと言えばそうでもない。
妙な奴らが大勢押し寄せてきたと、臆面もなく言い笑う町人たちの姿は存外心地よい。誰も恐れない。誰も怯えない。
これが三百年近く、徳川の世を作り上げてきた江戸なのか。
町を歩けば、日に何度かは「野暮天だねえ」と、笑われる。
蔑みの目もないことはないのだろう。だが感じない。己は元来鈍くできているらしい。口幅ったいことを言われるよりは、格段に心地よい。
金の懐中時計を忍ばせて、金の釦を光らせて、金の拵えの大刀を腰に差す。
それが所謂野暮なのか、粋なのかさっぱりわからない。
だが、それで良か。
フランスの香水をつけていると、女が喜ぶ。
それで良か。
それが良か。
京洛に居た頃よりも格段に胸が晴れている。
官軍となったからではない。
幕府を捻じ伏せたからではない。
江戸の奴らは奇異なる者を見て、そして朗らかに笑っていた。
江戸城下というのは、こういうところなのだと知ったら、途端に可笑しく思えた。必死にこの地を攻め落とそうと進軍した己が少し滑稽だった。
ここへ来たのは三年前のことだった。右も左も分からぬ薩摩の兵たちは右往左往しながらも、その地を感慨深く踏みしめた。
薩長の兵が勢い良く乱暴に攻め込んできたと思われただろう。無論それに相違ないのだが、当の兵たちの身体は疲労困憊。ただ江戸という地に到達したことに、気持ちばかりが昂ぶっていた。
鳥羽伏見で幕府軍を撃破。
兵の数からしても、当然もっとてこずるものと思い込んでいた。上手くいっても長引くもの。大坂で暫し戦うものになると思っていた。
が、あっけなくそれは終わった。
あまりのあっけなさに、勝利の意味を考える間もなく江戸へとやってくることになった。
江戸で戦うのか。
そう思うと、そこはかとない不安が押し寄せた。
大政奉還がなされ、王政復古の大号令が布かれたとて、ここは幕府が栄華を誇った地。
その地に畏怖の念を抱いている。
その地に些かの憧れを抱いている。
その地の軽やかな風に、浮き足立っている。
結果、この江戸は戦火に焼かれることなく東京という名に変わった。否、変えるより他なかった。
何故なら、城を奪っても、町は大して様変わりしなかったから。
幕府は滅びたのだということを知らしめるのには、そういうことを丹念にしていく必要があった。そしてこの夏、藩はなくなった。そう。薩摩藩もなくなった。
短く刈った頭が雨に濡れて心地よかった。ぶるりと犬のように頭を震わすと、店の娘がくすりと笑う。
「こいは、何の店じゃ」
再び娘はくすりと笑った。何の店か知らずに入ってくることが可笑しいのか、この薩摩の言葉がおかしいのか。
「雨宿りなのね。どうぞ」
見渡すと、同じ様に駆け込んできたと思しき連中が何人かいる。
土間に置かれた床机に座ってぼんやりしている者もいれば、座敷にあがってちびりと一杯やっているのもいる。
空いている床机に座るようになんとなく促された気がした。
「何か食うもんがあれば」
金がないわけじゃあるまいし。ただの雨宿りなら軒先を借りる程度にしたのを、わざわざ足を踏み入れたのは、暫しここで時を潰して帰るつもりだったから。
「あら。嬉しいわ、お客さんなのね」
娘は明るい顔で、しかしさほど喜んでいるという様子でもなく、飯台へ誘った。狭い土間には、二間ほどの飯台があって、止まり木に鳥が止まるように、三人の男がこちらに背を向けている。
その三人ともが着流しで、少し肩を濡らしている。
己とさして変わらぬ後姿。
「川海老を焼いているところなの」
「ならそいを」
目の前の店に入っただけだが、どうやらあたりだったようだ。酒を飲み飲み半刻もすれば雨もあがる。雨上がりの道を歩くのは子供の頃から大好きだった。
娘がすぐに手拭いを持ってくる。
「すみもはん」
頭を下げてその頭を拭く。隣の男の肩が僅かに揺れた気がした。
「あ、すみもはん」
雫が飛んだだろうかと、咄嗟に謝ると男は「いや」と小さく首を振っただけ。
元は旗本か御家人か。そういう侍が東京にはごろごろしている。連中には薩摩弁は忌々しく聞こえるだろう。故に、官軍とて一人でうろついてはならぬとよく言われる。
どこで恨みを買っているかわからない。
髷を落とす者も多い中で、その男は長い髪を未だに後頭部で束ね、背に垂らしている。洗いざらしのような藍の木綿の単をさらりと着ていて、同じ熱さの中にいたとは思えぬ涼しげな風貌だった。
戦った男か。
戦って敗れた男か。
根拠のないことを思い、途端に心が昂ぶるのを感じた。
時折、自分自身、妙だなと思う感覚が込み上げる。
戊辰の戦はとうに終わった。その頃、敵であったと思しき男に会うのが嬉しい。その男が今なお凛とした表情をしているとなお嬉しい。敵でありながら、どこか同志のような匂いがある。その匂いを腹いっぱいに吸い込むのが心地よい。
思わず深呼吸をした。この男にその匂いを感じたから。
「どげんです」
うっかりと徳利を傾けてしまった。男は迷惑そうに肩を落としていたが、断らなかった。
静かに酌み交わす酒に何の意味があるのか、この男は知らない。
飲み干す酒は、甘いような辛いような、安い味。
一言二言、言葉を交わした。
天気のこと、そして目の前の酒のこと。
話に乗ってくる陽気さはないようだが、嫌がる様子もない。つい、あれこれと言葉を増やした。
「満足か」
男は一通りの問いかけに答えた後、そう呟いた。
「美味か酒じゃもん。満足してもす」
「ほう」
男の首筋あたりに、瞬時に殺気が湧き上がった。
その殺気に反応するように己の身体の内部だけが身構えた。
男は一瞬揺らめきたった殺気をすぐさま消し去る。おいが殺気を感じ取ったということを感じ取ったのだ。
寧ろそのために殺気をちらつかせたのか。
相当な手練であることを、伝えようとしたのか。
この殺気には覚えがある。
「あっ」
思わず声をあげた。
「あっ。京で会うたことがありもすな」
「京だけじゃないがな」
ふんと鼻で笑われた。
男は決して顔をあげようとしないが、その額から喉元までの横から見た凹凸のはっきりとした輪郭は見間違えようがない。
「高台寺党じゃな」
幾度か京の藩邸で見かけたことがある。まだ戦が始まる前、新選組の一部が隊を離脱し御陵衛士を名乗っていた。彼らは薩摩とも懇意にしていた。
藩内にはいくつもの憶測が飛び交った。
本当に新選組から寝返った男たちなのだとも。実は寝返ったと見せかけてこちらの様子を探っているのだとも。
その中に手錬がいると聞いた。頭である伊東の脇に控える上背のある男がそれだと、一目見てわかった。何を考えているのかわからない男。
「物覚えがいいんだな」
答えるとは思っていなかった。だが男はあっさり頷いた。
御陵衛士は薩摩にとって敵ではなかった。寧ろ、新選組に壊滅させられた勤皇派だと言われていた。伊東らは新選組に惨殺された。そして生き残りの中には、薩摩や土佐に助けを求めてやってきて、薩摩と共に戦った者もいる。
だが、この男がどういう道程を辿ったのかは知らない。
「そうか御陵衛士じゃったか」
「それも一時のことだがな」
「いっとき?」
男はくすりと笑った。懐かしい笑い話をするように。
薩摩と共に戦っていたのか。
「会津じゃあんたに煮え湯を飲まされた身だ」
「会津じゃと」
巷ではまだまだ旧幕府兵との諍いが絶えない。殺傷沙汰も少なくはない。だというのに、この男はあっさりと己は新選組の側だったと認めていた。旧幕府軍の兵だったと。御陵衛士でありながら、会津についていたと。
奇妙な会話だった。
目の前にいるのが薩摩の中村半次郎と知ってのこととは思えない、まるで旧知の者に会ったような声音。無論和やかな筈もなく、ひりひりとしたものを皮膚に感じる。だが、結局その男の胆力にやられた。
おそらく新選組の中でも幹部に違いない。
誰だったか。
近藤や土方ならば顔もわかる。あれはあれで溜息の出るような侍だったと記憶している。その片腕となるような男か。
それほどでありながら伊東の側で薩摩に出入りし、そして戊辰の戦では会津にいた。
記憶の糸を無理やり解きほぐす。
今日まで生き延び、こうしておいの隣に座ってさらりとその素性を明かす男。
「ああ」
再び口は勝手に動いた。まるで懐かしい友に偶然再会したように。死んだと思っていた知人を偶然見つけ出したように。
「斎藤殿じゃ」
男はくっと喉元で妙な音を鳴らした。
再び一瞬の殺気を感じた。だが、身体は反応しなかった。油断と言えば油断なのかもしれない。今抜かれたら、間違いなく殺られる。
「斎藤殿じゃな」
「そんな男はもうこの世にいない」
男は初めて顔をこちらに向けた。
間違いない。斎藤一だ。
新選組で一・二を争う剣客と言われた斎藤一。
殺気が揺らめきたったのは間違いないのに、その顔は無表情な中に品格を備えていた。決して良いものを着ているわけでもない。総髪の髷は乱暴に束ねられているだけで、もさりと垂れている。
だが斎藤は明らかに己よりも上にいた。気高い姿をしていた。
何かを思い出す。
そうだ、会津での緋毛氈。
多くの血を流しての開城。
そして降伏式での緋毛氈。
あの時、あの毛氈は勝利の心地に酔わせる色をしていた。青い空の色に対比して、清清しくも己の滾る血の色にすら思えた。
だが、それはほんの僅か一瞬のこと。
そこに青白い顔の松平容保が立った瞬間、何かが変わった。
毛氈は相変わらず鮮やかな色をしているのに、己の血をすっと引かせるような重厚な色に変わっていた。会津を敗者としての無様な悲しみの中に陥れるような色ではない。
そこにはただ不運な境遇を、淡々と、しかし気高く受け入れる深みだけがあったように記憶している。
立派な城の受け渡しをしたと後日褒めそやされた己だが、あの時頭を擡げることができなかったのは、負けを認めながらも会津に圧倒的な気品ある重みを感じたからだった。
武人としての礼を尽くしたというよりは、結果的に己の身体が動かなかっただけだったのではないか。
そして今、揺るがない鮮やかな色が、目の前の男には宿っている。あの緋毛氈の如き、存在するだけで周囲を動けなくするような強い色。
その男はゆらりと立ち上がると、幾ばくかの金を取り出して飯台に置いた。かちりと小さな音が、別れを告げていた。
「また、会えもすか」
何故かそんな陳腐なことを言っていた。惚れた女が夜明けを待たずに帰るのを、引きとめようとしているように。
「さあな」
予想できていた筈なのに、素っ気無い返答に落胆した。
「斗南に戻らねばならぬのでな。いつ出て来られるかは、俺は知らん。そうだ、あんたの方がよく知っているだろう」
「斗南に?斎藤殿は会津の家臣じゃいや」
もともと会津藩士だったのか。否、そんな男が新選組から御陵衛士へと身を置き、薩摩藩邸に通っていたとは考え難い。
男は面倒くさそうに息を漏らした。
「答えねばならんのか。もう藩などないというのに」
「じゃっどん、斗南からちゅうなら」
「ただの護衛だ。命を落としても惜しくない者が選ばれただけだ」
廃藩置県に伴って、松平容保が東京へとやってきている。その護衛で来たというのか。
だが男はそれ以上何かを問うことを許さず、まだ雨の降る外へと出て行った。
阿呆のように口を開けてそれを見送る。
ただ黙って、見送るしかなかった。
「そのうちまた会うことになりもそ」
奥まった座敷から見知った薩摩の男が現れた。
「なんじゃ、おはん」
「見張りじゃ。川路さぁの言いつけでな。おはんが話なんぞするから肝が冷えたじゃねか」
「川路さぁが、斎藤殿を?」
「今は松平容保から名を賜って藤田五郎と言うそうじゃ」
「藤田」
「斗南で倹しい暮らしをしとると聞きもす。じゃっどん、こげんときには必ず出てくる男じゃ。油断はできもはん。よからん動きをせんようにと見張りがついちょる」
「そげんこつ」
呟くと、耳元にそっと続きが囁かれた。
「ちゅうのは表向き。川路さぁが目をつけておいやしから、近いうちにまた東京へやってくうこつになうんぞ。あん男は使える。斗南なんぞにおいておくのは惜しか」
不意に胸の中に痞えていたものが落ちて行った気がした。
「あん男はそれに気付いとうか」
川路の目の付け方は間違っていない。だが、あの緋毛氈のような男がそんなに簡単に川路の下へやってくるとも思えなかった。
あれは会津の男だ。
塩のやたらと効いた川海老を齧る。
まだ雨は止まない。
藤田五郎は本当に姿を現すだろうか。
脳裏には、何故かあの日の鮮やかな緋毛氈が広がっていた。





桐野利秋   明治四年