漆黒
しっ
こく

漆黒
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いつの間にか見知らぬ男が傍らにいた。
まだ春というにはひんやりと冷たい風が吹く頃だったか。確かに上洛の道中にはいなかった男が、いつのまにか傍らにいた。
名を問うたことはなかった。
だが周囲の者たちがやたらと「山口、山口」と声を掛けていたので、その男が山口一という名だということを知った。
主に声を掛けていたのは、天然理心流試衛館道場の近藤とその周辺の男たち。道場主である近藤が門弟たちを引き連れての浪士組参加かと思いきや、取り巻き連中は天然理心流とやらを遣わない。否、遣う男もいた。だが多くは別流派のようだった。
この山口という男もまた天然理心流を遣わない。
上洛後、形を亡くした浪士組を無理矢理存続させる形になったのは、俺の望んだことではない。
本隊はさっさと江戸へ戻っていった。
ならば近藤らもそうすればよかったのだ。
江戸に戻れば家屋敷も、その道場とやらもあるのだろう。
あの男たちに戻れぬ理由があるとは思えない。戻って、金のある連中相手に剣術を教えれば飯は食えるはず。
なのに、近藤は残ると言い張った。
物見遊山と勘違いでもしたか。初めての京をまだ楽しめていないとでも言いたいのか。
否、それならば始末は良かった。
近藤は、浪士組を率いて策を弄した清河八郎という男に食って掛かった。筋が通らぬとしつこく食い下がった。
どうにも青臭くていけない。
結果的に江戸には戻れぬ俺と、戻れるのに戻らぬ頭の悪い田舎者たちとが一緒くたに残ることになってしまった。
退屈しのぎには調度良いが、終始目の前をうろつかれると鬱陶しくて仕方がない。唾を飛ばして持論を語る姿も暑苦しい。
「あれは新顔ですよ」
女漁りに精を出す新見錦が、そっと俺に耳打ちをしたのはいつだったか。
会津の預かりになることが決まったときには、既にその嘆願書に名前があったというから、本隊が戻る頃には、もしかしたらもうここにいたのかもしれない。
だがどこから湧いて出てきたのかは知らぬ。
「何者だ」
「取るに足らん、つまらん男でさ」
確かそのとき新見はそう答えた。何を根拠にしているのかは知らない。
あれから僅かばかりの時が過ぎ、俺もいつの間にか男の顔と名前を覚えてしまった。そして、いくらかの人となりを垣間見た。
知れば知るほどに不可思議な男だった。
近藤らに「山口、山口」とやかましく声を掛けられている割には、一向に靡いている様子がない。
日々やることもなくごろごろとしている俺たちの中では、山口は異色だ。
ふらりとこの八木の屋敷を出ては一日二日戻ってこないことも多い。
俺たちが遊ぶ金も、地の利もなく、屯所でごろ寝を決めている間に、一人で一体何をしているというか。
金があれば妓楼で遊ぶこともできようが、そんな筈もない。
金がある男は、こんなところへやってはこない。
「芹沢さん。そりゃ気になってる目だなあ」
新見がそんなことを言う。
「いや」
他人などに興味はない。ないが、しかしどことなく目を引くので、ついつい追ってしまう。季節外れに庭を蝶が飛べば、誰でも少しは目で追うだろう。その程度のこと。
俺の視線に気付いているのかいないのか、山口は時折目が合うと慇懃に頭を下げた。
金がないのは確か。
だが、そのあたりに転がっている食い詰め浪人ではない。
飯が食いたくてここに寄生しているという様子ではない。
そして何より、腕が立つ。
「ありゃ会津が寄越した間者か」
俺は思い付きを口にした。
庭を横切っていく上背のある痩身を目で追いながら、酒を飲んでいたらふいにそんなことを思いついたのだ。
金はなくとも後ろ盾があるのではないか。
やさぐれているようで、妙なところに品の良さがある。それを相手によって使い分けるしたたかさもある。
烏合の衆を預かる条件として、会津がこの男を目付け役に放り込んできたとしたら合点が行く。
存外、的を射た推測に思えた。
「まさか」
新見はさらりと受け流した。
「御家人の次男坊だとかって話です。百姓上がりに比べれば幾分ましに見えるのはわかりますがね。会津が俺たちの様子を探りたいのであれば、もう少しまともなのを寄越すでしょう」
「ああ。そうだな」
いちいち新見の言葉に反論する気はおきない。
「なんでも江戸にいた頃、近藤の道場に出入りしていたんだとかで、その伝手らしい」
そんな関わりの男が、入京してから突如姿を現したというのがそもそも面妖ではないか。わけありだと思うのが妥当だろうに。何故気がつかぬのだ。
「阿呆か」
「阿呆でしょうな」
新見のことを言ったつもりだったが、当の本人は山口のことを言ったと思ったらしい。
横で俺の酒を奪いながら、にやにやと笑う。
賢い筈の男だった。
ものを良く知っているし、胆も据わっている。無論剣術の腕は信頼できる。
だがこの男にどうしようもない隙があるとしたら、この無神経さだろう。過剰な自信と言い換えることもできる。
己は誰とも関係がなく、高みの見物なのだという驕った感覚が常に漂っている。
妙な男が突然現れたことに、なんの違和感も持っていないというのだから、呆れてものが言えない。
こういう奴は、存外あっさりと山口のような奴に殺られる。
「気をつけろ」
一度だけ忠告をした。
「阿呆は所詮阿呆ですよ」
新見は吐き捨てるように言うと、ふらりと立ち上がる。
立ち去ってしまえ。
もう戻ってこなくて良い。
このまま戻ってこなければ、俺の苛立ちの原因のひとつは消える。そう思った途端、腹の奥のほうでどろりと何かが溶け出したような気がして、俺はその場でごろりと横になった。
身体が異様にだるい。
動かせるのはせいぜい目だけだ。
白い蝶がちらちらと視界を横切る。
どこへ行くつもりなのか。もともとあてなどないのか。
腹の底が爛れたようにぐずぐずと痛む。
闇がやってくる。
蝶は闇の中をも器用に飛び回る。
行く先が決まっていないのだから、迷うこともないのだろう。
お気楽なものだ。
ふんと笑うと白い光がふわりと再び目の前を横切る。
闇の中で蝶がぽとりと落下する。
腹の底が再びぐずりと疼く。
落ちていくのは必然か。
所詮、飛び続けることなどできるはずもない。
新見も然り。
近藤らも然り。
何の利があってここにいるのか。
一体何の夢を見てここに居座っているのか。
大層なお題目を抱え込んで、一体その先に何があるのか見えていない男たち。見る気もないのかもしれない。
その側にいると、日々闇ばかりが増幅してくる。
会津本陣である黒谷に呼ばれたと言っては肩をいからせ、祇園の女の肌が美しかったと言っては鼻の穴を広げている男を見ていると、闇がどんどん深くなっていく。
美味くもない安い酒では心地よく酔うこともできない。
頭の上でぐしゃりと嫌な音がしたような気がして、頭を擡げたが何も見えない。
そうか、俺は瞼を閉じていたのだと気付く。
だがその瞼が重くて開かない。
目を開けたとて、そこにあるのは一体何だ。
どんよりと澱んだ新見の目が見下ろしているに違いない。
瞳など開かなくても構わない。
「芹沢さん」
呼ばれた瞬間瞼は開いた。
俺の目に映ったのは、新見の皮肉な笑い顔ではなかった。
「なんだ。山口か」
「斎藤です」
「誰が斎藤だ」
「俺が」
ああ、そう名乗っているのかと知れば、やはりこの男は何やら面倒を抱えているのではないかと思えてくる。
己にも嘗て木村継次と名乗っていた頃があったように。
「暇そうだな」
「そうでもありません」
「じゃあ何用だ」
「用というほどのことでは」
山口は笑っているのか泣いているのか、はたまた怒っているのかわからぬような顔で寝転がる俺の横に腰を下ろす。
「なあ。てめえは一体会津のなんだ?」
不味い酒ではやはり面白い話はできない。俺の口から滑って出た言葉を、山口は顎の無精髭を撫でながら聞いている。
何のことだと惚けるであろうことを予測していた。惚けたら、脇差を喉元に突きつけて、何か面白い話の一つも聞かせろと文句を言うつもりだった。
だが山口は「さあ。己にもよくわからぬのです」と、僅かに笑った。
否定もせず、肯定もしない。
この男は、会津の間者ではない。
この男は、江戸へ戻らぬのではない。戻れぬ男だ。
己と同様に、ここにいることを選ばされた男だ。
「先が見えるかい」
「一向に」
曖昧な問いに即答する聡明さも持っている。
近藤やその取り巻き連中のように、何かが見える振りなどしない。その目に映らないものはわからないと言い切る胆力を持っている。
新見のように、薄ら笑いを浮かべながら傍観を決め込むこともしない。
「美味い酒が手に入ったんですよ」
山口はぼそりと低い声で言うと、貧乏徳利を俺の傍らに置いて立ち上がる。
「待て」
立ち去る男をわざわざ呼び止めるのに、何の意図があったのか。俺自身にもわからない。
だが山口は素直に振り返った。
「見えるか?」
今日二度目の問いかけだった。
だが山口は少し首を傾げただけで、目を細めると俺の顔をじいっと見る。
先刻は一向に何も見えぬと答えた。
「強いて言うなら闇だ。あんたの中に漆黒の闇が見える」
つまらないことを言う割には顔が僅かに笑っている。
「お前の中にあるもんと同じかい」
「同じ闇などあるものか」
「闇に違いなどあるものか」
禅問答のような言葉に、山口はうむと唸る。だが、真剣に考える気はさらさらないらしく、小さな欠伸をかみ殺す。
「どうやらおめえさんには、その闇から抜け出す力がありそうだな」
頼もしく思ったわけではない。光の射さない闇のような瞳は己と同じもの。なのに山口のそれは酷く澄んでいるように見えた。
山口は何が可笑しいのか、くすりと声をたてて笑った。そしてすたすたと立ち去る。
「面白れえな」
何が面白いのか、己にもわからない。
ただ、山口という若者がどうやってこの京洛で生きていくのか、ほんの少し、闇の底から見てみたい気がして、俺は寝転んだまま貧乏徳利の酒を飲んだ。





芹沢鴨  文久三年