青
朽葉
あおくちば
「何しに来た。差し向かいで飲むほどの仲じゃない筈だがな」
酔った勢いで言っているわけではない。
初めて会ったときから、愚鈍な目をした男だと思っていた。そのくせ、その目が時折鋭くもいやらしい光を放つ。
何を見ているのかわからない。存在自体が得体の知れないもの。
「いえ。これといった用向きがあるわけでは」
ぼそりぼそりとはっきりとしない言葉を発する。返答がいちいちつまらない男だった。
上洛後にふらりと現れて、いつの間にか壬生に居ついてしまった男だ。
近藤とは江戸に居た頃からの知り合いだと言う。
江戸で小さな道場の主だったという近藤は、取り巻きを何人も連れていた。つまり群れねば何もできぬ男に違いない。その取り巻きがたかだか一人増えたからとて、何も変わらない。
俺には所詮関係のないことだった。
「お前の顔は辛気臭い。眺めていると吐き気がする」
「すみません」
慇懃に謝って立ち上がろうとするから、俺は着流しの裾を踏んづけてやった。
気分よく飲み始めたところへやってきて、たった一言で帰られたのではこちらとしても割に合わない。存在自体がもう既に十分邪魔をしているのだ。せめて一つ二つ楽しませて貰わなければと嘯いたが、つまりは久しぶりにあった外界の男を帰す気になれないだけだった。
男は観念したように座りなおす。そして、目尻を下げて酷く穏やかな表情で丸窓の外を眺めた。夕暮れには少し早い。まだ白い日差しに照らされた木の葉はさらさらと穏やかな音を立てて揺れていた。
「まだ色づきませんね」
不吉なことを言いやがる。
木の葉が色を変えるのは散るためだ。それを美しいと言う奴の気が知れない。あれは色づいているのではない。ただ単に腐っていくだけのことではないか。
じっとりと湿気た風が吹く。
窓から入る風はまだ夏のものだ。
ここに入り浸って何日経ったか。
確かに窓から見える木々は数日前よりも色が深まっている。そして風が吹くたびにその揺れ方は頼りなくなっていく。まだ直ぐ目の前ではない終わりのときに向かって、葉の先に腐敗の始まりを予感させている。
男はそんな色の深まりに気付いているのか。
木々の揺れを静かに眺めている。
「何しに来た。まさか木の葉の色づき加減を確かめに来たわけじゃあるまい」
祇園、山乃緒。
上洛して程なく、俺はここを第二の住処にした。壬生にある南部の屋敷も悪くはない。
だがあそこにはつまらぬ男が多過ぎる。つまらないだけならまだしも、俺を苛つかせる奴が多い。
故のこの部屋だ。
そこに入り込んできたのがよりにもよって、斎藤一とは。
苛立ちの源の一人ではある。
だが俺の苛立ちを抑える男の一人でもある。
「木の葉の色づき加減は、洛中どこも同じですよ」
「なら来た甲斐がなかったというものだな」
ふふふと斎藤は笑う。
存外邪気のない笑みだ。
「手ぶらで帰すのもなんだな。どうだ一献」
俺は盃を持ち上げて斎藤に差し出した。その横顔には受け取る気がない。
なのに妓がいそいそと銚子をとる。
若くて、やや日に焼けた顔、痩身で上背がある。江戸から来た男は意外なことに妓に受けが良かった。俺からすれば気の利いた話のひとつもできない、陰気な顔をした薄気味の悪い男でしかない。だが着流しでふらりと現れ寡黙に佇む姿に、既に妓の目は釘付けになっている。
昼夜なく飲んではごろ寝の日々だ。妓も酔っている。酔いから醒める暇がない。
斎藤を見つめる瞳が、だらしなく潤んでいる。
「先生ぇ」
甘ったれた声で妓が言うと、斎藤は馬鹿面を下げて困ったように笑う。
妓はそんな斎藤の横顔に見蕩れている。
この調子なら、妓はあっちも潤んじまっているに違いない。
「ふん」
俺の不機嫌に気付いたのか、妓が慌てて取り繕い背筋を伸ばす。
どちらかと言えば俺の機嫌の悪さは、妓を無視する斎藤に向けられたものなのだが。
「おい」
今一度斎藤に盃を差し出すが、やはりはにかんだような笑みに押し戻される。
「さ。先生」
まるで飲む気のない斎藤にしつこく貼り付く。
京へやってきてからずっと俺が贔屓にしてきた妓だ。いくら金を落としたか知れない。
お前如き祇園の中途半端な妓がへばり付いて揺らぐ男ではない。この気色の悪い笑顔がすべてを拒絶する意志の表れだと何故気づかぬ。
これほど頭の悪い妓だったか。
「おい。酒はやめだ」
俺の言葉に妓は口を尖らせた。
斎藤の曖昧な拒絶をぶち壊してやりたい気持ちに、無性に駆られた。
「なんでどす」
まだ一口も飲んでいないのにというように、妓は小さな抗議をする。
「酒などどこでも飲めるだろう。折角ここまで来たんだ。もっといいものをやろうじゃないか」
妓は抵抗できぬと思ったか、素直に銚子を下ろした。
「こいつを満足させてやってはくれまいか」
妓の胸元に手を伸ばし、強引に肌蹴てから突き出す。露になった白い膨らみを目の前に、斎藤は眉一本動かさずに口元だけでまたも笑った。
妓は一瞬目を丸くした。だが、次の瞬間にはなんの躊躇いもなく斎藤にしな垂れかかる。
品性の欠片も感じられぬその身体は、既に俺の存在など忘れているのだ。
斎藤は斎藤で、妓の体を避けるでもなし、押し戻すでもなし、だが受け入れるでもなし。柔らかくふくよかな重みを胡坐の膝に乗せたまま、ぼんやりと外を眺めている。
「調度退屈していたところでな。お前も手ぶらで来たのでは罰が悪いだろう。何か面白い置き土産でもしていってくれ」
妓は斎藤の身体に触れたことで、すっかりその気になっている。頬を上気させ、白い指を斎藤の胸に這わせているというのに、当の斎藤は微動だにしない。
何を考えているのか、つまらぬ男だ。
俺が今までに見たこともないような、想像したこともないような、そんな狂気じみた淫猥な行為でも見せてくれれば、俺ももう少し生き長らえたいと思えるだろうに。
妓は指をするすると斎藤の股間へと下ろしていく。紅の濃い唇を斎藤の首筋あたりに触れさせて、それ以上に赤みの濃い舌をちょろちょろと覗かせている。
「あの葉は、己が枯れて散っていくことを知っていると思いますか」
溜息にも近い声は、妓ではなく俺に向けられているらしい。
妓は伸ばした手を止めた。
「阿呆か」
「新見さんならわかると思ったのです」
この男の気味悪いところだ。
「何故俺だ」
「なんとなく」
「俺が一番早く散りそうか」
嘗て隊に局長は三人いた。
だがそのうちの一人は、早々に局長ではなくなった。
その一人に今でも声を掛けるのはこの男ただ一人。
「知ってりゃ、少しは朽ちぬ努力をするだろうよ」
「なるほど。覚えておきます」
ひとつの隊に三人も局長がいるのは異常だ。だがそれは拮抗した力と立場があったからこそ。
つまり、力と立場が僅かにでも変化すればあっさり崩れる。
いつの間に俺は芹沢の配下に下ったのだろう。
大坂へ行けば乱闘騒ぎを起こし、屯所には女を連れ込み、金がなくなれば商家に押し込む。そんなつまらぬ男の肩を持った覚えはない。
つい先日の大和屋焼き討ちなど、くだらないにも程がある。天誅とは聞いて呆れる。
そのどれにも加わっていない俺が、何故芹沢の腹心と呼ばれるようになったのか。
元々あの男との間に特別なものはない。
だからこそ、局長は三人だったのではないのか。
俺を降格させることで、芹沢は力を伸ばしたつもりか。
近藤は俺を芹沢の腰巾着として扱うことで、己以下の存在に貶めたつもりか。
ならば次は近藤と芹沢、そのどちらかが引き摺り下ろされて局長は一人になる。
「お前如きが覚えておく必要などない」
何の興味でここへ来たのか。
葉が朽ちるのをそんなにも眺めていたいのか。
妓は俺たちのつまらぬ会話が終わったと思ったのか、再び斎藤の膝に腰を摺り寄せる。
「お前が俺を殺るのか」
「いえ俺は」
「殺らぬと言うか」
「新見さんが、どうするのか。それが知りたくてやってきただけなので」
朽ちかけた葉が朽ちぬ努力をするのかどうか、確かめに来たというわけか。
「どちらだ?」
斎藤は答えない。
「近藤か、芹沢か、俺を殺るのはどちらだ」
「さあ」
「誰がお前をここに寄越した」
「誰も」
己は近藤にへばりついているだけの下僕ではないのだと言いたいのか。
いつしか芹沢の下僕と成り下がった俺へのあてつけか。
「俺を笑いに来たか」
「それほど面白くはありません」
「お前の姿のほうがよほど笑えるな」
妓に擦り寄られても顔色一つ変えずに、俺の死を見届けに来たと言う。それが本当ならば笑ってやってもいいだろう。
「逃げぬのですか」
「せいぜいお前は足掻くんだな」
数多ぶら下がっている葉の中には、季節外れにもがれていくものもあるものだ。
はらりと、まだ青い筈の葉が落ちていく。
あれが俺か。
「俺は、新見さんほど胆が据わってないので。見苦しくない程度には足掻きますよ」
無論、汚らしい色になってもなお、最後まで無様にぶらさがっている葉もあるだろう。
せいぜい腐れ果てるまでぶらさがっていろ。
誰にも迎合せずに、この隊の中にいるのは難儀なことだ。己にその気がなくとも、周囲が勝手に存在を振り分け位置づける。
「知りたいことが済んだら、その妓を抱くか帰るかどっちかだ」
斎藤のあまり変わらない表情が僅かに動いた気がした。
妓が着物の裾を自らたくし上げて、白い足を覗かせ、斎藤の膝に跨ろうとする。
斎藤は今日初めて妓の顔に視線を向けた。
俺への餞に妓を悦ばせる気があるのか否か。
斎藤は再び感情のない顔になると、指先ですっと妓の顎をなぞる。
妓が恍惚の表情を見せる。
俺は咄嗟に妓の襟首に手を伸ばし、一気に引き倒した。
無様に妓の体は転がった。
斎藤の冷静な目が癪だった。
その目が、俺に初めて死の恐怖を感じさせた。
青いうちにもがれる痛みを想像させた。
「見てろ」
妓の着物の裾を派手に捲り上げて、熱くなった下半身をぶつける。妓はわざとらしい悲鳴を上げながら、ちらりと横目で斎藤を見る。
斎藤は無言で立ち上がりながら、俺を見下ろしている。蔑みの目か、哀れみの目か。
次に朽ち葉になるのが、芹沢なのか、近藤なのか。
せいぜいそれを見届けろ。
立ち去る背中を睨みつけながら、俺は己を吐き出した。
新見錦 文久三年